2017年9月22日金曜日

老後のこと

人生はどこまでも発展するわけではなく、閉じることを考える日がいつかくる。
歳をとるとできることが減ってくる。体の自由が利かなくなる。記憶できることも減る。
結婚をし、子供を上手に育てると、老後に色々助けてくれる。
行くところがなく、そこそこ金銭的余裕がなければ、老人ホームに入る。

思春期から思っていた。僕は老人ホームには入れない。

中学のときに、大叔父と大叔母夫妻が老人ホームに入って訪ねていった。勝手に出て行かないようにエレベーターには鍵。決まった時間にお遊戯会。自分には無理だ、これが幸せだと自分では思えないと思った。

高級老人ホームであれば自由があると思うけど、入るだけで3000万円以上かかる。そんな余裕どこにある。

そんな協調性に欠ける、わがままと言われる人間でも寿命まで尊厳を持って生きていける、新たなシステムを考え続けているし、これからもずっと考えると思う。

基本的には、基本的には地縁のある街の中に住み、老人で助けあいながら生きていく。例えば、食事を定期的に一緒に食べたり、飲みにいったり。できないことがあれば、お互いでできる範囲は助け合う。痴呆になっても、出歩いたりすることを制限しない。子育て世代も地域に住めるように、ボランティアで親が帰るまで家であずかったり、子供との交流の機会を仰々しくない形で持つ。

小さな地域づくり。でもこれから裕福でなく小難しい人間が終わりを迎えるには必ず必要となる。そしてなによりも自分のために。それを現実にするために、どのようなシステムを作れば良いのか。そんなことを考えた休日でした。

2017年7月22日土曜日

時間

週3回、朝の会議の準備、議題整理を担当している。

最近、議題から脱線して、時間が長引いてしまうことが多々ある。

そのときに、よく聞く意見がこれだ「あーゆう、人たちは人の時間を取っているという自覚がないんだ」

私も、あー、議題違うんだけどなー、早く終わらないかなーと思い、人に上記の意見は言われるたびに苦笑いをしてします。

社会的にはその通りの意見だけど、ふと自分では「時間」ってそんなにないものなのか?と思ってもいる。

特に、時間がなかったからできなかった、という良く使われる理由は、時間が制約されるテストにだけ使ってもいい理由で、その他の状況では「やる気がなかった」あるいは「漠然と答えがわからなかったので、できなかった」のだと思った方がいい。

時間ってあるんだと思う。忙しいからそこまで手が回らなかったということもあるけど、仕事だったら、時間制限って結局めどをつけるため、便宜的につけていることが多いので過ぎてもやりきるれることって結構ある。

だから、時間を奪われているのは錯覚で、要は当初の想定とは裏腹に話が脱線することによって「不快な時間を他人に強要されている」のがどうにも我慢ならぬ。というのが正しいのではないだろうか。つまり人間は自分で自分の時間の過ごし方を支配する、あるいは自分で選択した時間(or 選択したと思わされている時間)の過ごし方をできてなれば不快に感じてしまう生き物なんだなーとふと思った土曜であった。

そう、そしてこんなことを書いている私は、やろうと思ったことが全く手につかないので、自分の時間をこれを書くことを選択したつまり、有意義な時間をすご・・・しているのか?

2017年7月14日金曜日

コンプレックス

ビーマイベイベイ、ビーマイベイベイ、ビーマイベイベイ、ビーマイベイベイ
いやそっちじゃない。というか、分かりにくいボケですみません。

ちまたでは、3日、3か月、3年と3のつくものには、変化を感じやすい。つまりダレやすいと良くいったものです。そう、いま、たすくちゃんは新たな仕事3か月目。なんだかなーという感じで、体があまりゆうことを聞かず、脳は従順、体は反抗期状態です。
こういう循環が良くないときは、家に帰り一息つくと、ふと内省を初めてしまうもの。そこで考察してみるとなかなか面白いのではないかと感じたのでまとめてみたいと思います。(全然悩みとかじゃないんで、真剣にとらえず読んでくださいね)

1、関西人なのに面白くないコンプレックス
中学時代から感じていたのですが、自分の発した話題で笑いを手にしたことがない。トーンなのか、発言なのか。。。それともセンスなのか。。。。
まだ関西にいるころはそれは漠然としたものなのですが、関西以外の人たちと会うとそれを目の当たりにするのです。関西人だから、面白いことをいうんだろうなというまなざしを感じる。。。
言わしてもらおう、関西人、みながおもろかったら、今頃みんな窒息死してる。私のような人間が関西の人びとの命を救っているのだ。(聞こえてくる、なんちゅう理論や!というつっこみが)

2、学歴コンプレックス
この世界にいるとみんな周りは名だたる日本及び世界のトップ大学出身者ばかり、常日頃から、学歴なんて関係ないと人前では言うものの、なぜか引け目を感じる。
ああ、これが学歴コンプレックスというものか。大学の名前で脳みそのレベルが劣っているような気になる。でも、だからこそ、このすばらしき人たちより努力しなければいけないのだ!という自分への戒めにもなっているから不思議なものだ。



なんか、いま思った。僕って前向きやな。

2017年6月10日土曜日

スーダン、にーかいめ、にーかいめ

スーダンに2回も行く人。実は結構いる。そして私もその一人だ。

そう、4月からスーダンに戻っています。中東・北アフリカの国での滞在、2周目に入ってきた国もでてきて、それなりの歳になったんだなって実感してます。

朝、8時前に職場に行き、遅くても8時には帰り、大体23時には寝ている健全な生活。休日は朝からテニスをし、洗濯、アイロン、拭き掃除、掃き掃除、モップ掛けをし、コーヒーを入れ、インターネットサーフィン、テレビ、読み物をしていると2日間がなくなり、また一週間が始まるといった具合である。

今度は、国際機関でのお仕事。正直わからないことだらけで、触れたことのない情報が多く、記憶容量が上限を超えてあふれ出してることが自分で良くわかる。

今のお仕事は、人の命を守ることを最も優先度の高い基準に据えて考えを組み立てていくので、やりがいはある。また調整や取りまとめ業務を行っているため、今までの経験もなんだかんだ役に立つ。ただ、首都の事務所におり、特定のプロジェクトを見ているわけではいため、現場からの距離は遠く、仕事をしていてバーチャル感があり、そういうジレンマは日々感じてしまう。

実感としては、これまではメディアからの情報や政府関係者からの情報を得て、国全体や政府の意向を中心に考えていただけど、今は日々、現場から現状報告があり、より「人」やそこにある問題に焦点を当てたより細かい情報を得ることができる。

具体的には、スーダンを国単位のマクロな視点でとらえるとダルフールやその他の州での紛争は収まりを見せており、経済的にも石油収入が減る中で一定の安定は保っているため、国全体の流れとして復興や開発のフェーズに入っていくことが妥当だと思える。しかし、南スーダンからの移民・難民が流入し、国内の紛争で移動を強いられ、ご飯を食べられない人、医療を受けられない人、教育を受けられない人はとても多く、特に断続的に紛争を行っていた地域に住む人は命の危険に面しているので、今日・明日の命をつなぐ支援もいまだ必要となっている国なのである。前は前者の視点に立っていたけど、今は後者の視点が強い。

ちなみに、どの紛争国、紛争経験国、あるいは紛争以外の危機に瀕する国でも、命をつなぐ支援と持続的な復興や開発を平行的に押し進めて行く必要がある。ただ、現状ではどちらの支援に重点を置くかは支援国の政策や支援を受ける国の要請によって決められており、現実を反映しない支援内容の偏りが問題となっていたり、また命を助ける支援というのは、支援国からすればいくらつぎ込んでも吸いこまれて(ごはんは食べればなくなる)、また大切な血税を永遠に払うことになるので開発用語で「援助疲れ(aid fatigue)」という現象が起きる。

スーダンについて言えば支援国の「援助疲れ」は限界に達している中、治安の好転や経済上の一定の安定は、命を助ける支援を行いながらも、スーダン政府や自治体、コミュニティの能力を高めることで、紛争や飢餓、あるいは治療可能な病気で死ぬ人がいない環境を作り出すことが可能な状況を作り出していると言え、それはいい兆しに見える(詳しくこの考え方を知りたい場合はhumanitarian, development and peace nexusを検索して見てください)。2つの支援スキームを分断的に考えるのではなく、命を助ける支援を行いながら、スーダン人による対処能力の向上を行える支援を入れる考えを、第一にスーダン人自身が、また支援国や支援に携わる人も持つことが、重要であり、その実行が課題でもある。

小難しいことを言ったようであるが、要は前よりももっと細かい単位で支援の必要性を見ることができる環境にあるということです。そして、そういう現状をかみ砕いて、わかりやすく人に伝えていけることを願っている。

なんか言ってること意識高い系ですよね。でも、我々の伝えようとしていることのベースにはご飯を食べられず、また医療を受けられず死んでる人が実際にいる「現実」があり、何が今起きているかを感じ取っていただければありがたいと思う今日この頃である。

すごくいいことを言った気がしていて、全然おもしろくないので、スーダントリビアを2つ。家選びの際、日当たりの良い家は避けましょう。あと、日本で話題がないときに使う天気の話題、「めっちゃ暑い」って言うとスーダンの方々は喜んでくれます(今日はいい天気ですねって言っても当たり前なので、ここでは意味をなさないと思う)

ご清聴ありがとうございました。

2016年9月22日木曜日

2015年誕生日の声明

自分で読み返してみても学生をしてるときの思考は面白い。
FBに2015年の8月18に投稿したものですが、消える前にブログに移管しました。

なんら特別な権利を得れることもない27から28という移り変わり、でも本人の心には何故か重くのしかかります。もう30目前。。。 一言で表現すると色々ヤ・バ・イ(汗)


こんな歳にもなって働きもせず、自分は何をしているのだろうかと、ふとした瞬間どころか一日に3回程度は思ってしまい、愕然とする毎日の繰り返し。考えるたびに膝がガクガク震え、顎が外れる思いをする。


今年一年、何をしていたのか。はて何をしていたのでしょうか。


戦争はなぜ起こるのだろうか?と小学生のような問いをした一年だったのではないでしょうか。


奇しくも八月は原爆投下、終戦記念日、お盆。日本人にとっては人の死と密接にある季節。


人が死なない武力紛争はない。武力紛争自体の学術的定義自体が人が何人死んだかにあるから武力紛争と呼ばれるものには死が確実にからむ。


実は紛争というものは人を幸せする機会を与える。戦争経済と呼ばれる現象で武器や後方支援などで特需が生まれ、国の景気がよくなったりすることもある。社会がリセットされ、貧富の格差が強制的になくなったりもする。


戦争の主体は変わった。国と国との戦争から、国の中でのイデオロギーを軸にした戦争、そして冷戦後はもう何がなんだか分からない色々入り乱れた「北斗の拳」的紛争状態。戦争に国境という概念がなくなりつつある。クラウゼヴィッツ戦争観からの・・・(以下略)


次から次と形を変える戦争。戦争はなくなるのだろうか。なくならないんだろうな。なくならないというほうが賢いんだろうな。でも、なくなると信じ、努力しなければなくならない。


戦争はなぜいけないのか。戦闘員だろうか誰だろうが、人が死ぬからだろうな。人はどんな極悪人だろうがその人は人とつながっていて、誰かの生きがいとなっているのだと思う。知り合いが死ぬと誰だろうが寂しい。実は皮肉にもこのことは戦争の一因になる。


大切な人を守りたい。そうでなくても臆病者と非難され、家族に迷惑をかけないために戦争に行く。人と人のつながりのために戦争を行う。全うな理由だが、皮肉な生き物だと思う。


そういえば、どこかの国会議員が若者が戦争に行きたくないということが臆病と言ったそうな。大きい声で言ってあげてほしい。「戦争に行くのが怖い」と。


死ぬことが怖くないというのは詭弁だと思う。平時にはいくらでも言える。「わが人生に一遍の悔いなし」若者が本当に言えるのだろうか?人為的な死が差し迫ったときは死ぬほど怖い。


安全保障の勉強をしていると時々戦争は人がしていることを忘れる。どこの土地が取られたか、戦略的にはどうなのか、武器の種類は。。。人の死が数としか捕らえられず、なんか平面的だ。


かといって、みんな自分を攻撃しない人たちではないということを頭にいれとかないといけない。自分の安全は自分で守る。これ、当たり前。その万万が一のために、日本では自衛隊の方々が日々訓練を行い備えてくれているし、想定危機対応に関して日々頭を悩ませている人がいる。


8月は自分の家族にとって誕生日が立て込む季節。祖父、母、そして今年亡くなった大叔母。彼女が生きていたら、○○歳だったかと思う。


昔ドラマで中井貴一が言っていた。誕生日には二つ祝う意味があると。一つ目は誕生したこと。もう一つはその歳まで元気に生きられたこと。


今年も自分が元気に生きられたことに感謝するとともに、今年はもう歳をとれない大叔母のことを思うと悲しい思いがする。


視野を広げると、誕生日を迎えることができない人は紛争地にはたくさんいる。毎年、「今年も一歳をとってしまったよ。」と言えることがどれほど幸せなことなのか、また家族、友達にとってそれがかけがえのないことなのか考えさせられる。誕生日を祝えること自体が幸せを享受している証であると人の死から思い知らされる。

ということで、今年も元気に一歳としを取れそうです。事前になりますが、誕生日をお祝いいただき、ありがとうございます。

一文のために長々と失礼しやしたー

サンタ考

季節外れですが、サンタの真実についてです。

サンタクロース。白ひげのおじさん?お父さん?お母さん?


いやいや、全部関係はしてますが間違いです。


「サンタクロース」は会社の名前です。白ひげのおじさんは会社の創業者でシンボル的な存在なだけです。いってみればKFCのカーネルおじさんです。


では、会社というとその収益は何で成り立ってるのさ?ってなりますが、基本事業の以下の4本柱です。


① トナカイ牧場(そもそもの創業がここから)

② 版権ビジネス(おもにコカコーラ社ですが、商業目的でサンタのおじさんをしようした会社からお金をせしめてます)
③ グリーンエナジー発電(トナカイ自体やトナカイの糞から出るメタンガスを回収してそれを燃やして発電しています)
④ 投資事業 (①-③の収益をつかって)

でも、そんなに巨大企業なんだったらどうしてみんな知らないの?ってなりますよね。

実はおもちゃを配ることによって税金を免除されているのです。税金を納める義務がなければ登記する理由もないですよね。あと、従業員数もかなり限られているし、公に言うことも禁じられています。(子供の夢的な理由で)

それだったら、さらに誰がおもちゃ作って、誰が配っているのさ?ってなりますよね?

いい質問です。おもちゃはおもちゃ会社の株を買い占めて、強制的に作らせ、株の配当としておもちゃを受け取っています。

配達に関しては、グローバル企業なので世界中に支店があります。その支店からクリスマス前に親に対しておもちゃのピックアップ場所と時間を指定した手紙が送られてきます。


この配達方式には難点があって、治安がよくない場所、あと思想上の理由でイスラム諸国にはなかなか支店を開けないので、そこに当てはまる子供たちにはプレゼントを届けることができないのです。。。


なになに、親だけどそんな手紙受け取ったことないって?かわいそうな人ですね。


一説によればサンタを信じないといって愚弄している親には手紙が届かないそうです。

なんだかなー

おもしろいことがしたい。もっと、もっとおもいろいことがしたい。
新しい知識がほしい。新しい経験がしたい。
前へ前へ、時には下がり、立ち止まり、前へ