2016年9月22日木曜日

2015年誕生日の声明

自分で読み返してみても学生をしてるときの思考は面白い。
FBに2015年の8月18に投稿したものですが、消える前にブログに移管しました。

なんら特別な権利を得れることもない27から28という移り変わり、でも本人の心には何故か重くのしかかります。もう30目前。。。 一言で表現すると色々ヤ・バ・イ(汗)


こんな歳にもなって働きもせず、自分は何をしているのだろうかと、ふとした瞬間どころか一日に3回程度は思ってしまい、愕然とする毎日の繰り返し。考えるたびに膝がガクガク震え、顎が外れる思いをする。


今年一年、何をしていたのか。はて何をしていたのでしょうか。


戦争はなぜ起こるのだろうか?と小学生のような問いをした一年だったのではないでしょうか。


奇しくも八月は原爆投下、終戦記念日、お盆。日本人にとっては人の死と密接にある季節。


人が死なない武力紛争はない。武力紛争自体の学術的定義自体が人が何人死んだかにあるから武力紛争と呼ばれるものには死が確実にからむ。


実は紛争というものは人を幸せする機会を与える。戦争経済と呼ばれる現象で武器や後方支援などで特需が生まれ、国の景気がよくなったりすることもある。社会がリセットされ、貧富の格差が強制的になくなったりもする。


戦争の主体は変わった。国と国との戦争から、国の中でのイデオロギーを軸にした戦争、そして冷戦後はもう何がなんだか分からない色々入り乱れた「北斗の拳」的紛争状態。戦争に国境という概念がなくなりつつある。クラウゼヴィッツ戦争観からの・・・(以下略)


次から次と形を変える戦争。戦争はなくなるのだろうか。なくならないんだろうな。なくならないというほうが賢いんだろうな。でも、なくなると信じ、努力しなければなくならない。


戦争はなぜいけないのか。戦闘員だろうか誰だろうが、人が死ぬからだろうな。人はどんな極悪人だろうがその人は人とつながっていて、誰かの生きがいとなっているのだと思う。知り合いが死ぬと誰だろうが寂しい。実は皮肉にもこのことは戦争の一因になる。


大切な人を守りたい。そうでなくても臆病者と非難され、家族に迷惑をかけないために戦争に行く。人と人のつながりのために戦争を行う。全うな理由だが、皮肉な生き物だと思う。


そういえば、どこかの国会議員が若者が戦争に行きたくないということが臆病と言ったそうな。大きい声で言ってあげてほしい。「戦争に行くのが怖い」と。


死ぬことが怖くないというのは詭弁だと思う。平時にはいくらでも言える。「わが人生に一遍の悔いなし」若者が本当に言えるのだろうか?人為的な死が差し迫ったときは死ぬほど怖い。


安全保障の勉強をしていると時々戦争は人がしていることを忘れる。どこの土地が取られたか、戦略的にはどうなのか、武器の種類は。。。人の死が数としか捕らえられず、なんか平面的だ。


かといって、みんな自分を攻撃しない人たちではないということを頭にいれとかないといけない。自分の安全は自分で守る。これ、当たり前。その万万が一のために、日本では自衛隊の方々が日々訓練を行い備えてくれているし、想定危機対応に関して日々頭を悩ませている人がいる。


8月は自分の家族にとって誕生日が立て込む季節。祖父、母、そして今年亡くなった大叔母。彼女が生きていたら、○○歳だったかと思う。


昔ドラマで中井貴一が言っていた。誕生日には二つ祝う意味があると。一つ目は誕生したこと。もう一つはその歳まで元気に生きられたこと。


今年も自分が元気に生きられたことに感謝するとともに、今年はもう歳をとれない大叔母のことを思うと悲しい思いがする。


視野を広げると、誕生日を迎えることができない人は紛争地にはたくさんいる。毎年、「今年も一歳をとってしまったよ。」と言えることがどれほど幸せなことなのか、また家族、友達にとってそれがかけがえのないことなのか考えさせられる。誕生日を祝えること自体が幸せを享受している証であると人の死から思い知らされる。

ということで、今年も元気に一歳としを取れそうです。事前になりますが、誕生日をお祝いいただき、ありがとうございます。

一文のために長々と失礼しやしたー

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